ハンギョレは日本軍慰安婦被害最高齢生存者で慶尚南道統営(トンヨン)に暮らすキム・ポンドクさんを2013年春から写真に収め始めた。 地域で慰安婦の生計費を支援するために貯めた財産を、青少年に奨学金として配るなど旺盛な活動を繰り広げてきたキムさんは、最近認知症や関節炎のために集中治療室と一般病棟を行き来している。 2015年現在、韓国政府に日本軍慰安婦被害者として登録された238人のうち生存者は53人。今年だけで二人が亡くなった。「日本から謝罪を受けてこそ死んで目を瞑れる」というキム・ポンドクさんは、今日もその日を待っている。
両手で包んだキムさんの手が、けいれんするように震えた。 唇も同じように震えている。97年奮闘してきたキムさんの体はもう思うように動かない。 先月、キムさんの誕生日をむかえて、地域の青少年、市民社会団体の活動家たちと訪ねた時にも、キムさんはもう終わりだと話した。 97歳を象徴するロウソクが白いケーキの上で火を灯したが、気力が衰えたキムさんにはその火を吹き消すことができなかった。 97歳の誕生日を祝うために2月7日午後、キムさんが療養中の慶尚南道統営(トンヨン)市 陶山(トサン)面のある病院を訪れた統営・巨済(コジェ)地域の青少年がキムさんとともに誕生ケーキの火を消した。
1918年に慶尚南道統営太平(テピョン)洞で生まれたキムさんは、21歳になった1939年に統営劇場の前で「工場に就職させてやる」と言う日本人の言葉にだまされて船に乗った。釜山を経て中国に到着したキムさんは、1941年まで大連で、その後、再びフィリピンに連れて行かれ4年もの間苦難を強いられた。
「そんな風に船に乗せられて連れて行かれてした苦労は、到底言い尽くせない。悲嘆に暮れて涙も枯れ果てました。泳げもしないのに死ぬつもりで(海に)歩いて入りました。 水にここまで漬かったけれど死ぬこともできなくて。この悔しさは死ぬまで消えないと思います」。その残酷な歳月を経て、キムさんは1945年の解放当時にフィリピンから軍艦に乗って祖国に向かった。 日本の下関と釜山(プサン)を経て故郷の統営に戻ることができた。
2013年3月、統営市北新洞の自宅を訪ねてキム・ポンドクさんに初めて会った日、キムさんは杖をついて一人で歩いて中央市場の入り口まで迎えに来てくれた。くねくねと曲がった狭い路地を歩いてキムさんの自宅に行く間、キムさんは2回ほど座って休みながら、年齢の割にはお元気そうだった。 その上、とうの昔に白髪になったキムさんの頭には再び黒髪が生えてきていた。
韓国挺身隊問題対策協議会の活動家たちと談笑を交わした後、キムさんにひょっとして若い時期の写真がありますかと尋ねた。 キムさんは全部なくしてしまい、一枚しか残っていない言って引き出しから一枚の写真を出して見せてくれた。きれいに着物をきちんと着て撮った“フミ子”と呼ばれた時期の写真だ。 日本軍“慰安婦”被害者の証言調査のために訪韓し、この日キムさんに会った日本の歴史学者、吉見義明・中央大学教授は慎重にその写真を撮影した。
既にキムさんの端正な暮らしに相応しい清潔で素朴だったその自宅はない。 2013年秋、キムさんは自宅を整理して病院で過ごすことになった。 持病の神経痛と関節炎が悪化して、もう一人では暮らせなくなったためだ。 状態は好転するかに見え、2014年夏にはキムさんはもう少し良くなったら家に帰りたいと言っていた。だが、2014年冬に会ったキムさんは急速に病が重くなっているように見えた。
それでもキムさんはまだ耐えている。「日本軍慰安婦ハルモニ(おばあさん)と共にする統営・巨済市民の集い」のソン・ドジャ代表は、「キムさんがいつも自分の妹(他の慰安婦被害者たちのこと)が日本の謝罪も受けられないままに皆死んだ。私がこの仕事をしなければならないと仰っていた」として、使命感だけで今も持ちこたえていらっしゃるようだと現在の状況を説明した。 学生たちが帰った後、ソン代表はキムさんの腕と足をさすりながら耳元でささやく。
「お母さん、もうすぐ春がきます。 また元気になってくださいね」
それ以上は言葉も出ず、ソン代表の頬に涙が流れた
キム・ポンドクさんは今、あまりに残酷だった人生の最後の場所に立っている。人の顔を認識することも、まともに話すこともできない。 散歩はもちろん、床擦れを防ぐために横になったからだを動かすにも看病人の助けが必要だ。 以前のその明るかった笑みを今は見ることが難しい。 そのようなキムさんに代わって、誰がいつ尋ねても一途に語っていた彼女の一生の願いを伝える。
「日本が謝罪するならば、歌を歌って踊りもします。 私たちは恨めしくて死ぬに死ねない。日本が謝罪をしてこそ死んで目を瞑ることができる。私の恨みを晴らせるのはそれが一番じゃないですか」